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「芸術は、命がけ。」
 草間彌生が語る仕事-1
写真
描くことで生き抜いてきた

幻想や幻覚と一人で
闘った少女時代

 実家は大きな種苗業と採種業を営む旧家で、広大な土地や、その頃では珍しい六つもある温室では、毎日大勢の雇い人がスミレや百日草などさまざまな種を採り、日本全国に売っていました。また地元の画家のパトロンになるなど、美術には一定の理解がある家庭でした。

 ただ、父の放蕩(ほうとう)のために母はすぐに激し、家の中は不安定で、私はいつも追い詰められるような気持ちで暮らしていたのです。幼い頃から、私は採種場へスケッチブックを持ってよく遊びに行きましたが、ある日スミレ畑で物思いにふけっていると、突然、スミレの一つひとつがまるで人間のようにいっせいに話しかけてくるという体験をします。私にはスミレの花が人間に見え、恐怖で家に逃げ帰りますが、別の日にはまた山並みの稜線(りょうせん)に、輝く光やさまざまなものが見えたりする。

 どうしていいか分からない私は、家に飛んで帰って、今見た光景を次々とスケッチブックに描いていったのです。そんな時は心ここにあらずで私は別の世界にいるのですが、膨大な数を描きながらそうやって驚きや恐怖を静めていきました。それが私の絵の原点です。

 あの少女時代から、毎日毎日イメージは次から次へと湧き上がり、それを定着させる手が追いつかない状態であり、それは70年余りを過ぎた現在でも少しも変わりません。私の根源には、平和な世界への願いや、人間や自然、宇宙とはどういうものなのかということに対する畏敬(いけい)の念と、それを希求してやまない渇きがあります。

ジョージア・オキーフへ
手紙を送る

 私には絵を描くことが、理不尽な現実世界を生き抜く唯一の道でしたから、年頃になっても他のことは何も目に入りません。しかし、美術に理解を示す家庭ではあっても、自分の娘が「絵を仕事にしたい」となれば話は全く違いました。母親の弾圧と支配は圧倒的で、絵などはやめて相応のところへ嫁に行くことを強要してきます。

 19歳の時、「学校ならばいい」とやっとのことで母の許しを得て、逃げるように京都にある美術工芸学校の日本画科へ入学します。この時まで私は全て独学だったので、期待を持って進んだのですが、待っていたのはただ「精密に描きなさい」というだけの不愉快な教授と、美術家のランクや師弟関係にうるさい因習的な画壇でした。私は学校へ行かず、ここでも自分の部屋でひたすら自分の絵を描いて2年間を過ごし、実家へ戻ります。やがて長野で少しずつ作品が賞を得るなどして認められ始めました。

 それでも、私の心は自由になれない。思い余って、憧れの女性画家ジョージア・オキーフに手紙を書こうと思い立ちます。住所を知るために6時間かけて東京のアメリカ大使館へ出かけ、「美術の道で生きていくすべを教えて欲しい」と14枚の水彩画と共に思いの丈を送りました。驚いたことにオキーフは、すぐに励ましの手紙をくれました。後で分かったことですが、私の水彩画を画商に持ち込んでもくれていたのです。

 この息苦しい日本を後にして外国へ渡りたいという希望は、私の中で一層大きくなり、資金代わりの着物を60枚ほどと、100万円の現金を商社経由のドルで受け取る手配をし、ニューヨークへ移り住みます。描きたいものを思い切り描き、個展を開いて見てもらおう。無謀ともいえる、でも解放感に満ちた日々の始まりでした。(談)

くさま・やよい ●前衛芸術家・小説家。長野県生まれ。子供の頃から水玉と網模様をモチーフに絵を描き始める。1957年渡米。巨大な平面作品など多くの作品を制作して高い評価を得る。また反戦運動や多数の「ハプニング」、映画製作などを行う。73年帰国。美術作品の制作発表を続けながら小説、詩も創作、83年小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞受賞。94年から野外彫刻を手がける。98〜99年アメリカ・日本で大回顧展が巡回。他に国内外で個展多数。第50回芸術選奨文部大臣賞、外務大臣表彰、朝日賞、紺綬褒章、高松宮殿下記念世界文化賞、文化功労者顕彰など受賞多数。全世界100カ所の美術館に作品集蔵。公式サイト http://www.yayoi-kusama.jp