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「感じた人は、行う責任がある」
 羽田澄子が語る仕事―1
写真
「女流」と呼ばれたくない

生涯の仕事を探したい
それは自然なこと

 生まれてから、第2次世界大戦終戦までの20年近く、私が成長する日々は戦争の時代。教師であった父の転勤で、私たち家族は旧満州大連(現・中国大連市)と日本で暮らしました。世間も学校も「お国のため」と声高で、女学校に入ると「女性は子どもを産めよ増やせよ」と言うだけ。私はその単調な押しつけがつまらなくて、本当にうんざりしました。ほかにもっと何かやることはあるだろうと思って(笑)。

 私は「おとなしくて何を考えているか分からない子」と言われながらも、小学校の頃から、自分がやりたいことは何だろうとぼんやりと思いを巡らせていた。女性が将来の仕事のことを考えるのは呆(あき)れられるような時代でしたが、そんな鬱々(うつうつ)とした中で女学校時代に、自由学園創設者の羽仁もと子先生が主宰する雑誌『婦人之友』と著作集に出会ったのです。70年も前ですが、母が読んでいたのですね。私にとって内容は衝撃的でした。

 特に「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という言葉は、胸にピンっと強く響いてきました。どこに進学しようかと思っていた私は、たちまち自由学園に決めたのです。両親は、満州を出て東京へ進学を願う娘に何も言いませんでした。ここから私なりの、人とは違う人生が始まっていったのですね。

 羽仁先生のお話はとても個性的で、今まで出会ったどんな教育者とも違いました。毎朝講堂の壇上で話されるのですが、壇上を行ったり来たりし続けながら、「あなたたちは生活をよくしなければ駄目よ。どうするか自分で考えなさい」と、今までの学校で一度も聞いたことのない言葉を私たちに注いでくださるのです。根底には、人間が生きるとはどういうことかという思想がありました。

 中でも私の一生を支配した言葉は「感じた人は、行う責任がある」というもの。卒業して仕事を始め、いろいろな事態に巡り合うたびに、私はこの言葉に立ち戻ってやり抜いてこられたと思います。

写真集の編集で
制作の現場に

 自由学園を出て大連の自宅に戻り、その後日本に引き揚げてから、しばらくは連合国軍総司令部(GHQ)のチャペルセンターで、出勤簿などの整理をするような仕事をしていました。英語もよく分からず、これがやりたいことではないとは思うものの、自分のしたい仕事がなかなか見つけられませんでした。

 そんな時期に、羽仁説子先生(もと子先生の長女)が「岩波書店が映画製作を始め、息子の進(のちの羽仁進監督)も参加します。あなたもいかが」と声をかけてくださった。ところが私は映画に興味がなく、あっさりとお断りしてしまいました。それなら本の編集はどうかと問われ、関心がある分野なのですぐお引き受けしたのです。やはり、感じたことには動くわけですね(笑)。本の編集とは岩波写真文庫を作ること。編集長の名取洋之助さんは厳しくも愉快な方で、ものを作ることに無縁だった20代の私を徹底的に仕込んでくれました。「君はこの本で何を訴えようとしているの」「写真は挿絵ではない。写真をして語らしめよ」と繰り返し語り、伝えるべき本質を明確にするのだと教えられました。

 いい作品を目指す仕事の考え方に、男性も女性もないのです。私が得た開放感はとても大きく、ものづくりの世界に強く引かれていきました。それは新しい仕事の希望を感じた65年ほど前の出発でした。(談)

はねだ・すみこ ●記録映画作家。1926年旧満州大連(現・中国大連市)生まれ、自由学園女子部高等科卒業。50年(株)岩波映画製作所に入社し、記録映画の演出に携わる。81年以降(株)自由工房を拠点にフリーの記録映画作家として活躍し現在に至る。作品に『早池峰の賦』(文化庁芸術選奨文部大臣賞ほか受賞)、『痴呆性老人の世界』(毎日映画コンクール教育文化映画賞ほか受賞)など多数。著書に『安心して老いるために』『私の記録映画人生』などがある。