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「感じた人は、行う責任がある」
 羽田澄子が語る仕事―2
写真
好奇心に引っ張られて

スタッフの誰も私に
耳を貸さないスタート

 生涯をかける仕事を探していた20代の私は、誘われた岩波写真文庫で羽仁進さん(のちの映画監督)の助手として本の編集を手がけていました。その頃、同室で映画部門の編集前のフィルムを眺める機会があり、興味を引かれるようになったのですね。やがて映画部門に移った羽仁さんに声をかけられ、一度はきっぱり「映画に興味はない」などとお断りしたのに、今度は面白そうだとついていきました(笑)。

 担当したシナリオや企画は、映画部門の責任者である吉野馨治さんが細やかに見てくださった。そして「映画は、その人に言いたいことがあるのなら、誰にでも作れる」と、映画の現場へ私を送り込んでくださったのです。当時の映画界は厳しい徒弟制度で、監督でもカメラマンでも、一人前になるには10年はかかるという時代。吉野さんのような主張は皆無でした。しかし岩波映画製作所は女性への偏見がほとんどなく、幸運な私は羽仁監督のもとで映画『教室の子供たち』の助監督を体験し、子どもたちのごく自然な様子を捉える画期的なドキュメンタリーの手法に触れました。

 その後、文部省(現・文部科学省)から社会教育事業である「婦人学級」を映画にと依頼があり、シナリオ『村の婦人学級』を書いた私に演出もどうかと驚くような展開が起きます。迷いました。でもやれるところまでやって、10年やってもダメならまた考えようと心が動きました。これが生涯の仕事になるのか確かめたいという気持ちが強かった。しかし、無知というか、ぼんやりというか、わずかな助監督経験しかない私を現場の猛者たちが受け入れてくれるはずもありません。60年前の撮影は、機材もスタッフも今よりずっと大所帯で、そこに降って湧いたように未経験の若い女性が監督だとやってくる(笑)。スタッフはさぞ疑心暗鬼だったでしょう。私の話には馬耳東風という空気でした。

やり抜くのは当たり前

 ロケ地は当時の滋賀県甲賀郡。一つの村のお母さんたちを婦人学級に組織することから撮影は始まりました。ある農家の離れを宿泊所としてお借りし、40日間もお世話になりながら。その頃の農家のお嫁さんは、大家族の世話や子育てはもちろん、農作業の担い手でもあり、しかも自分の意見を言うことなどできない過酷な立場でした。彼女たちが集い、思いを語る場を作ることが婦人学級の目的です。その立ち上げのプロセスから追い、お嫁さんたちにどのような変化が起きるかをドキュメンタリーにすること。それが私のテーマでした。

 彼女たちの気持ちの変化に時間がかかることは想像できました。だから細やかにカメラを移動させ、一人ひとりの行動や表情の変化を撮りたかったのですが、カメラマンは聞いてくれません。集まりの場になったお寺の本堂に大きなカメラをどんと据えたまま定点で撮るという。どれだけ説得しても動かしてもらえなかった。残念ながら撮り損ねた映像も多くありましたが、でも、農家のお嫁さんたちが生き生きとしてくる様子は捉えることができたと思います。

 経験不足でも、撮りたいテーマがはっきりとあったので引き受けた責任を果たすことができた。当時の私の仕事に反対する人がいるのは当たり前。どれほど時間がかかっても思いを語り続けるしかありません。(談)

はねだ・すみこ ●記録映画作家。1926年旧満州大連(現・中国大連市)生まれ、自由学園女子部高等科卒業。50年(株)岩波映画製作所に入社し、記録映画の演出に携わる。81年以降(株)自由工房を拠点にフリーの記録映画作家として活躍し現在に至る。作品に『早池峰の賦』(文化庁芸術選奨文部大臣賞ほか受賞)、『痴呆性老人の世界』(毎日映画コンクール教育文化映画賞ほか受賞)など多数。著書に『安心して老いるために』『私の記録映画人生』などがある。