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「まだ、こんなものじゃない」
 小林公一が語る仕事―1
写真
電車の運転士で現場へ

与えられた仕事こそ
まず一生懸命に

 既に4、5歳の頃から父や母に連れられ宝塚歌劇を見て育ちました。舞台は芝居とショーの2部構成で、さすがに男女の恋愛の話はよく分からなかったのですが(笑)、ショーは楽しんでいましたね。最初に鮮明に記憶した作品の一つは「虹のオルゴール工場」。高度成長期の日本の若者を題材にしたミュージカルで、地方の時計工場で働く歌のうまい青年が、芸能界を目指すために恋人を故郷に残し東京へ向かう。一時は成功するのだけれど欲を出してつまずき、最後は故郷へ戻る物語です。曲も良かったし、演じている生徒が生き生きとしていて子ども心にもすごいと思いましたね。

 でも、中学、高校時代になると拒絶していたわけではないのですが、女性のお客様が多い劇場には入りにくくて足が遠のきました。東京の大学時代、東京宝塚劇場はまだ通年公演されていませんでしたが、だいたいの公演は見ていましたね。他にも映画をよく見ていました。今、振り返って考えれば、その頃は、第1次の「ベルサイユのばら」ブームが終わって、それを演じたスターたちが退団していった後で、劇団の皆さんが今以上に頑張らなければという雰囲気を醸し出していたように思います。一方、私の家族は私の将来について何も意見をせず、本人も仕事をどうするかなど考えたこともない、実にのんびりとしたものでした。ただ、小林一三翁の本などに「与えられた仕事を一生懸命やれば、人は認めてもらえ、次のステップを与えられる」と書かれてあるのを読み、仕事を始めたらそうしようと納得していました。

社員が一つになる
その楽しさを知ろう

 阪急電鉄に就職して、当時はまず1年目が現場実習。神戸線運輸課に配属され、車掌と運転士を経験しました。運転士は国家試験があり、無事に免許証をもらって1年間どっぷりと現場につかっていました。激務ですが、運転の仕事はやっぱり面白かった。次に配属されたのは、全く勝手が違う会計部と財務部です。数年そこで仕事を覚え、当時の三和銀行事業調査部に出向。すごく難しい部署でした。

 与えられた仕事を頑張ってやってきましたが、「あんまり細かいことは向いてへんのと違うか」と、逆に自分のことに気がついたりしましたね(笑)。そして阪急電鉄に復職した後、宝塚歌劇団の制作部門に、プロデューサーとして異動になります。

 電車の運転士をやって、会計や事業調査の仕事を経た人間が、演劇やショーなどのエンターテインメント世界のプロデューサーになる。他の企業ではほとんど例のないことでしょう。また、一般にプロデューサーと言えば、かなりの人脈を持って資金や制作のスタッフを早急に集める力が必要です。しかし宝塚歌劇は、舞台で歌い演じる生徒、演出家、脚本家、音楽の制作者、舞台美術、衣装など必要なスタッフが全て社内にいます。よく驚かれますが、実はみんな「身内」なのです(笑)。

 舞台制作に関わる人たちは、みんな個性と才能にあふれた人ばかり。例えば演出家は、それこそ自分の作品に心血を注ぐのでやりたいことがあふれてきます。しかし、舞台には予算の制約も、装置の制約もあり、プロデューサーはそれを調整して、しかも成功に導いていく能力が必要です。阪急電鉄で育ち、阪急のDNAを持った人間同士なので、その呼吸が分かるわけですね。

 仕事には、全員で力を合わせてやり遂げる喜びがあります。誰一人欠けても素晴らしい結果が出ない。だから自分の持ち場を真剣に守れば、またそれをちゃんと見ている人が次の仕事を考えてくれるのです。(談)

こばやし・こういち ●宝塚歌劇団理事長。1959年大阪府生まれ。曽祖父の故・小林一三氏は阪急電鉄(株)や宝塚歌劇団を擁する阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創設者。82年慶応義塾大学法学部卒業後、阪急電鉄に入社。89年から宝塚歌劇団の制作部門で星組プロデューサーを務め、その後3年間の本社勤務を経て96年歌劇団理事に就任。2000年歌劇団総務部長、02年専務理事、04年から現職。また、14年から阪急電鉄の創遊事業本部長兼創遊統括部長も務める。